所感雑感

くだらないひと。

急行列車のみで本州を一周できた時代の話

 平成最後の3月のダイヤ改正を明日に迎えた。近年の3月のダイヤ改正で一番印象に残っているものといえば北海道新幹線の開業と同時に最後のブルートレインだった北斗星と最後の定期急行だった急行はまなすの廃止が行われた3年前のダイヤ改正だろう。

 しかし昔は急行列車が網目状に走り回っていた。それこそ都市圏の路線と盲腸線以外はほとんどの路線で走っていた。それでは急行列車だけで本州を一周出来たのだろうか?手元にある数少ない昔の時刻表で調べることにした。

 

 まず何をもって本州を一周したとするのか。もちろん同じ駅から同じ駅に行けるなら素晴らしいがどうしても障壁となってしまう区間がある。東京-上野間と大阪-天王寺間だ。そのため本州を一周するにはそのどちらかの端の駅を起終点としなければならない。

 私の手元の少ない時刻表を調べると天王寺-大阪(新大阪)間が優等列車で結ばれたのは天王寺駅阪和線関西本線を結ぶ短絡線が完成した時だ。それまでは関西本線経由の急行が湊町駅(現:JR難波駅)まで行くものはあれど大阪駅まで行くものは見当たらない。

 では東京-上野間はどうか。現在の上野東京ラインのようなものが昔も存在した。それの廃止が1973年4月だという。その後、天王寺駅の短絡線が完成するのが1989年7月だ。それより前に阪和線紀勢本線を走っていた急行きのくにが廃止になってしまう。つまり急行で本州を一周出来たのは1973年4月まで、大阪、天王寺起終点の経路だったということが分かる。

 

 起終点が分かったところで実際の旅程の話になる。私が持っている一番古い時刻表は東海道新幹線開業以前の1963年7月に発刊されたものだ。しかしこの時代は急行どころか準急のみで本州を一周できるのではないかと思うほど準急が多い。1966年に行われた100km以上走る準急の急行格上げ前だからだ。準急のみでの本州一周というのも面白そだが今回は急行にこだわることにする。持っている時刻表で次に古いのは1971年12月号だ。今回の旅程はこの時刻表を元に組み立てる。臨時列車は除くこととする。

 

 

天王寺駅発の旅程

天王寺駅13時10分発 急行きのくに6号 紀伊勝浦駅18時05分着

紀伊勝浦駅18時18分発 急行紀伊 東京駅6時14分着

東京駅7時45分発 急行日光1号 上野駅7時50分着

上野駅8時発 急行そうま2号 仙台駅13時18分着

仙台駅13時21分発 急行さんりく 宮古駅19時着

宮古駅7時04分発 急行リアス 盛岡駅8時55分着

盛岡駅9時17分発 急行十和田6号 青森駅12時351分着

青森駅15時20分発 急行津軽1号 秋田駅18時37分着

秋田駅9時50分発 急行しらゆき 新潟駅14時16分着

新潟駅16時05分発 急行ひめかわ 糸魚川駅19時22分着

糸魚川駅4時17分発 急行北陸2号 金沢駅6時55分着

金沢駅9時05分発 急行大社 米子駅18時38分着

米子駅21時50分発 急行さんべ3号 下関駅5時51分着

下関駅6時40分発 急行山陽2号 広島駅10時17分着

広島駅15時50分発 急行吉備 岡山駅19時01分着

岡山駅5時54分発 急行鷲羽2号 大阪駅9時04分着

 

大阪駅発の旅程

大阪駅8時03分発 急行安芸 呉駅13時30分着

呉駅14時48分発 急行吉備 広島駅15時17分着

広島駅19時15分発 急行ながと2号 下関駅22時40分着

下関駅23時28分発 急行さんべ3号 米子駅6時56分着

米子駅9時27分発 急行大社 金沢駅18時33分着

金沢駅3時17分発 急行きたぐに 糸魚川駅5時35分着

糸魚川駅7時17分発 急行ひめかわ 新潟駅10時24分着

新潟駅14時29分発 急行しらゆき 弘前駅21時37分着

弘前駅6時20分発 急行しもきた1号 盛岡駅10時38分着

盛岡駅12時50分発 急行陸中 花巻駅18時58分着

花巻駅8時52分発 急行十和田1号 上野駅16時48分着

上野駅18時34分発 急行日光2号 東京駅18:41分着

東京駅20時30分発 急行紀伊 紀伊勝浦駅8時30分着

紀伊勝浦駅8時46分発 急行きのくに4号 天王寺駅13時42分着

 

 どちらの旅程でも急行大社が出てくる。この列車は宮脇俊三の「最長片道切符の旅」でも出てきた日本海沿い長距離走る昼行急行だ。もっとも最長片道切符の旅の頃には金沢発着ではなく福井発着に短縮されていたが。

 また東京-上野間の急行日光1号の所要時間が5分であることにも驚く。現在の上野東京ラインはおよそ7分かかる。急勾配の区間があるのも確かだがそれを含めてもかなりのんびり走っている感がある。

 

 この時刻表からおよそ7年後の1979年1月号を見ると、もちろん東京-上野間の移動ができなくなっているのだが、それ以前に東海道本線を走る急行が様変わりし関西本線紀勢本線へ入ることが不可能になっている。名古屋まで走っていた急行東海は静岡までに短縮され、7年前は急行だった紀伊寝台特急に格上げ、東京から静岡より先まで移動できる急行は急行銀河のみとなり、その急行銀河も名古屋には停車しなくなってしまったためだ。

 

 その後、天王寺駅の短絡線が完成することで優等列車による本州一周のルートが復帰する。しかしそれも2005年に特急いそかぜが廃止となることで下関経由のルートがなくなってしまった。

 現在も新幹線に乗り、新山口経由で日本海側に出、三セクのえちごトキめき鉄道を通過するようなルートでなんとか優等列車での本州一周のルートが残っている。しかし悲しい話題ばかりではない。2020年に常磐線が復旧するとおよそ9年ぶりに常磐線が本州一周のルートに復帰することになる。しかも上野東京ラインが完成した状態でだ。

 来年はもう少し資料を増やした状態で考察ができればと思う。

人間の抱える問題を解決するための反出生という矛盾の話

 世の中には反出生主義というスタンスがある。本能しか持ち得ない動物には到底浮かばない考えだろう。
 しかし、その反出生主義の根拠として時に語られる様々な社会問題や環境問題。これはどう考えても矛盾している。
 たとえば食糧問題。人がいなくなれば解決するという単純明快な解だろうがそうはいかない。解決していない。そもそも食糧問題は人間の存在が不可欠で、その解決にも人間の存在が不可欠だ。難民問題であっても難民がゼロになり、母国なりどこかしらの国で安寧な生活を送れるようになって解決する。
 環境問題もそうだ。人間がいなくなって東京に緑が戻って40度超えの夏がなくなったとしてもそれに何の意味があるのか。我々は基本的に人間原理に沿って物事を見ている。つまりこの世界は人間のような知的生命体が観測しているから成立しているということた。人間のいなくなった場所に平和が訪れても何の意味もない。これは人間のエゴではなく弱さだ。我々は見られないものは見られない。

 わたしは反出生主義というより優生思想よりの人間だ。セックスという自己肯定感を行為の形で表したものを否定する気はさらさらない。ただ「問題を全て解決できる反出生主義〜!」みたいな捉え方が気持ち悪くてしょうがない。まるで人口削減計画みたいじゃないか。人生は苦であり、それを克服するために生への意思を否定する。ショウペンハウエルの思想こそ高貴なる反出生主義だと考える。

議論の話

 ネットでの議論(口喧嘩?)を見ていると、誤った言葉遣いをした人に対して「正しくは〇〇だ。日本語勉強しろ」と煽り、さらに相手も「お前こそ日本語勉強しろ」みたいな煽りをする状況が多々見られる。
 こういった場面を見るたびに「言葉遣いってそんなに重要か?」と思う。もちろん真逆の意味で使っているんだとすれば訂正すべきかもしれないが、例えば「いう」を「ゆう」だとか「は」を「ゎ」だとか、そんなのどうでも良くね?となる。逆に言えば今まで議論していた内容はそういうショボい内容に負けるようなものだったということだ。

 そもそもネット上で「議論」を見たことがない。どれもこれも議論ではなく教育のしあいだ。「ぼくの考えを教えてあげよう。あわよくば、というか絶対にぼくの考えを取り入れてね。」と意気込んでいる。先生気取りだ。だから些細な言葉遣いの違いも指摘する。
 そんなこと無意味だと思わないか。どこの馬の骨かも分からないネット上の人間の「教育」なんかまともに受ける奴がいると思うか?いないよ。絶対にいない。それに議論の終着は1と0ではない。どこまでも連続量的。両者の中間点を求める行為が議論だ。どうか議論をして欲しい。こういう考えをみんなで共有すれば平和になると思うんだけどな。相手をボコボコにしたいアホは除いて。

自殺の話

 女子高生が電車に轢かれ死んだ。さらに彼女は自殺をツイキャス等で配信していたらしい。

 Twitterを見ていると「明るい未来が待ってたのに、どうして命を粗末にするのか」みたいな感じのツイートがあった。きっと彼女も本心で、善なる心で言ってるんだと思う。

 

ふざけんなよって思った

 

 なんだよ「明るい未来」って。ヌルいこと言ってんじゃねぇぞ。

 俺はこの女子高生のことは知らない。でも必死に生きて、生きて、生きて。そのドン詰まりで自殺ってするもんじゃねぇのか?じゃあ、あるのかも分かんねぇその明るい未来」にすがって生きればいいのかよ?まじ狂ってんだろ。無責任なこと言うなよ。口が滑ってでも「明るい未来が待ってる」だとか「命を粗末にする」とか言うなよ。そんなの、命を粗末にしてんのは自殺した奴が一番分かってんだろ。何よりも、自分の命がその位置まで落ちるほどの何かがあったってことだろ。想像力を働かせろよ。ふざけんなよマジで。

 俺は自殺出来る奴は本当にすげぇと思うんだ。あんなん足すくむだろ。どんだけ「死にたい」って思って息を止めたって、一分もすりゃいつも通り肺に空気入れちゃうんだよ。自殺した奴に対して、「明るい未来」だとか「命を粗末に」とかそんな薄っぺらいこと言ってんじゃねぇぞ。マジで、これが生き延びれる奴の思考かって思うと嫌気がさす。

 

最後に

そんな薄っぺらい言葉で「自殺者のことを考えてる」みたいなオナニーブッ扱いてるぐれぇなら黙ってる方がよっぽどマシだよ。クソみてぇな言葉で、彼女の16年の生涯を終えるその瞬間の思いまでも殺すな。

赤ちゃんプレイの話

 赤ちゃんプレイ・・・この世の桃源郷。これは童貞の思う「赤ちゃんプレイ」を記録したものである。

 

 赤ちゃんプレイを称したAVは数多く存在する。しかし、どれも私の琴線に触れるものではない。それは様々な要因がある。

 

1.排泄のシーンがない

 赤ちゃんプレイらしさを出すために大概おむつを穿いてはいるのだが、そのおむつを全くもって使っていない。作中で「マンマ」などの幼児語を用いていることから考えると男性は1歳ほどと推察できるが、その頃の排泄の頻度は小便が1日10回。大便が1日1~3回である。(出典:花王 メリーズ 赤ちゃんのおしっことうんち 月齢別おしっことうんち)排泄の描写がないのはどう考えてもおかしい。赤ちゃんプレイに求めるのは「大人が赤子の真似をする醜態」ではなく、「全てを包み込む母性愛」だ。排泄物の処理は母性愛の1つである。それをせずに何をする。

 

2.基本毛深い

 毛深い赤ちゃんを見たことあるだろうか。いや、いる。たまにいる。しかし半端ないスネ毛の男が「マンマ」とか言いながら足をバタバタさせているわけだ。そんなおぞましい光景を見て「そそるなぁ!」なんていう好き者はそういない。女優のパイパンばかりではなく、男優のスネ毛剃毛も行うべきだと思う。これは赤ちゃんプレイもの以外でもだ。

 

3.セックスしてる

 これが一番納得いかない。セックスする赤ちゃんなんかどこにいるんだ。まだ毛深い赤ちゃんの方がいるよ。親のセックスから2,3年しか経ってない奴がセックスなんかするかよ。しないんだよ。おっぱい吸っても勃起しないんだよ。男優はバカみたいに勃起させるが、女優も「大っきくなっちゃったの?」って、アホじゃないのか。赤ちゃんが大っきくなるかよ。ならないんだよ。セックスしたいんだったら「しょう太くんシリーズ」でも見ていればいいんだよ。小学生なら精通していることもあるから。

 

 そもそも赤ちゃんプレイをAVとすることに意味を感じない。AVは性的なものがなくてはならず、そう考えると赤ちゃんプレイとは相反する位置にあると思う。赤ちゃんプレイの終着点は射精ではなく、無限大なる母性愛に包まれる幸福感である。変に手コキしたり、そういうのはおかしい。手コキが母性愛ならママに「おちんちん大っきくなったからシュッシュしてぇ」と言うのか?いや、それもいいけど。すごくいいシチュだけど。おかしいよこんなの、赤ちゃんプレイじゃない。もし赤ちゃんプレイを作りたいと監督が思うなら、もっと赤ちゃんプレイとは何たるかを学んでいただきたい。

中学生の性の汚さ、集団の気持ち悪さの話

 私は今、怒っている。いや、これが怒りなのかもよく分からない。胸の中にモヤモヤとした憎悪がグツグツと煮えたぎっている。

 「神対応」て...あー、気持ち悪い。

 

 今の学生がどのような性の目覚めをするのか分からないが、小学生高学年ぐらいで「セックス」という行為を知り、中学生の頃はそれのしたさがマックスまで到達する時期だ。ぼくはそうだった。

 中学生の頃は本当にセックスがしたくて堪らなかった。脳内では熟女の英語教師と若い英語教師の2人と3Pしていたし、母の着替えや風呂を覗き、母とセックスしてもいいとまで考えていた。洗濯をした母の下着をズリネタにし、「孕め」と思いながらショーツに向かって射精していた。友達とはチンコの見せ合いをした。ここに書いていいのか悩むほどの自慰もした。本当に見境のない汚い性欲が出てくるのが中学時代だ。

 

 汚い性欲を身に纏った男たちの前に現れたホットパンツ姿で生足を露出した22歳の女性。汚いの性欲はどんどん燃えたぎっていく。しかもその場には多数の同志が。1人なら抑えられたかもしれないが、皆が行くならとその欲望を開放させる。集団心理の為せる技だろう。気持ち悪い。

 はっきり言って大概の男はこういう危険性を孕んでいると思う。男の性欲の枷は法と各々の倫理ぐらいだろう。法と倫理を失った獣に囲まれた稲村亜美さんは本当に怖かっただろうと思う。不気味な笑みを浮かべながら息を荒げて触っていたんだろう。気持ちが悪すぎる。

 

 性欲を抑えるにはどうしたらいいのか。中学時代受けた性教育の講習会みたいなのの中で、女の先生が「オナニーをして性欲を発散させましょう」なんてほざいていた。チンコも持ってないのに何が分かるんだろうか。オナニーをすればするほどセックスへの期待感が高まっていく。性欲が増大していく。中学生なんかオナ猿だからいわゆる「賢者タイム」がほぼない。どこまでも性欲の枷は倫理でしかない。中学生には難しいかもしれない。実際、自分も様々なオナニーをした。「人様の迷惑になってはいけない。」これが真理であり、どんな時でも適用されるべき法だ。性教育なんかして小4にセックスの仕組みを教えている暇があったら、そういう倫理道徳を脳髄に染み込むまで教え続けるべきだ。

 

 何も教育が悪いわけではない。各々が悪い。しかし、その各々を変えられる可能性が教育の中には秘められている。そういうことを言いたかった。もっと言えば、自分は汚い性欲を持っているんだということ、これはみだりに行使されるべきものではないということに気付くといいが、この自己否定の境地に到るには幼すぎる感はある。

 

 苛立ちに任せた乱文で人間一般(男性一般?)について話したいのに一般化されてない気がするが、まあいい。個人のブログだもんね。

皇位継承の話

 今日の読売新聞の「退位へ」という連載にあった皇位継承女性宮家の個人的な意見をまとめようと思う。

 

 現在、皇位継承者は4人。継承順に紹介すると今上天皇の長男である徳仁親王次男文仁親王文仁親王の長男である悠仁親王昭和天皇次男の正仁親王だ。どうでもいいが、正仁親王とその妃、華子は私の唯一会ったことのある皇室だ。

 正仁親王は81歳とかなりの高齢なので皇位を継承するとは考え辛い。そうなると実質的な皇位継承者は3人となり、2019年の5月1日には2人になる。かなり心許ない感じはする。

 

 この心許なさを解決する手段として考えられているのが「女性宮家」だ。最近、眞子内親王と小室圭の納采の儀の日取りについての話題があったが、女性宮家というのは結婚する女性皇族を皇籍離脱させずに新しい宮家を創設して跡継ぎを増やすものだ。一般の女性との間の子を皇族とすることはあれど、一般の男性との間の子を皇族とすることは前例がないと思う。これを男尊女卑と取るのか伝統と取るのかは各々だ。

 

 私は伝統と取るし、誰1人として好き好んで皇族になりたい人間なんかいないと思う。女性宮家以外の手段として言われている旧宮家の復帰も同様だ。誰も皇族なんかになりたくない。ある人からは変に神格化され、そういった正しさを自分だけでなく配偶者にも求められる。批判される人間からは税金の無駄遣いと言われたり戦争責任を問われる。政治家のように何を変えることが出来るかと言えば何も出来ない。しかし、「日本国の象徴」として扱われるし振る舞わなければならない。ある種の虚構性とも見て取れる。

 

 少し本筋から離れる。

 

 現在の天皇観というのは明治以降150年程度の歴史の浅い天皇観で、しかも敗戦後の日本には合わないものとなってきているように思う。これを打開しようと今上天皇も苦労なされたのだと思う。江戸時代からの国学の興隆を受け、明治に入り天皇は歴史の流れから外れ、これもまた歴史の流れと解することも出来ようが、昔の延喜式だとかそういった様式の祭祀を復古した。天照大神神武天皇から始まる萬世一系の天皇観には非常にマッチしたのだろう。法というベールに隠されていた虚構性が、敗戦後に法が消え露骨に見え始めた。時代とぶつかりながら洗練されるべきと私は考える。

 

 では、私は皇位継承者の少ない現状をどう考えるか。悠仁親王に皇子がなければそこで天皇制の終了でいいと考える。今の天皇制の存在意義を考えて欲しい。私は歴史資料だと思う。そんな訳はないが、ただの家族なら、また神道の祭祀の長ならばなぜ国税で生活費諸々を賄わなければならないのか。雄略天皇以後、倭の五王を含めればもう少し前から続くその家系、古墳時代からずっと日本のトップ、それに準ずるものに就いてきた歴史、その厚みを受けての現在の天皇、皇族と捉える。

 しかし、歴史資料も失われてしまう瞬間がある。天皇制におけるその瞬間が今である。側室を設けることが出来ず子孫を残すことが難しくなった今、消えてなくならない方が不思議だと思う。誰も皇族になりたくないだろうし、何より1500年以上続いた歴史を崩してまで続けるべきなのかが謎だ。

 神社の存続だが、何も神社が天皇の存在に裏付けられているわけではない。アニミズム的な宗教に戻れと言っているわけではないが、1つの精神的支柱が失われたに過ぎないと思う。天皇も大事かもしれないが祭神は古事記日本書紀風土記等々に書かれている神々だ。神道も時代に合わせて変わってきたわけだから無に帰すことはないだろう。

 

 皇位継承者がいなくなる体で話を進めたが一番好ましいのは悠仁親王に皇子が産まれることだ。君が代が千代にも八千代にも続くことを願っている。あと、全て敬称略で書かせて頂いた。