東京観光した話 その2
踏切のところまで書いて終わってるのでその続きを。
浜離宮に行こうと思ったのだが、300円も取られるということで諦め、新橋駅目指して歩くことにした。
途中で見えてくる異様な建物。国立新美術館を設計したことで有名な黒川紀章が40年以上前に設計した中銀カプセルタワービルだ。カプセルは取れるようになっているらしく、出来た当初はカプセル内には最新の家具が揃っていたという。今現在もマンションとして使われているため1つ1つが個人宅であり、現在の部屋の中は窺い知れない…
さらに新橋駅方面へ歩くと、またも異様な建物に出会う。これは丹下健三の設計した静岡新聞と静岡放送の東京支社ビルだ。丹下健三といえば代々木体育館だが、こちらも素晴らしい。このビルの写真を見た時は、「こんな建物、この世にあるのか」とさえ思った。どうにか見学できないものだろうか。というか、この写真だいぶピン甘な感じだ。外は暑かったし陽炎かもしれない。嘘です。
その後、新橋駅から地下鉄に乗りなんやかんやで北千住へ行った。
北千住の大踏切。日比谷線には踏切がないとは言え、伊勢崎線にも浅草に向かう列車や半蔵門線に向かう列車とあるわけで、結構な時間待たされた。しかし、この踏切をなくすのも難しいのだろう。上にはつくばエクスプレスと日比谷線、近くの地下には千代田線が走っている。この踏切がなくなる時は、この道もなくなる時なのだろう。
その後、千代田線で千駄木へ向かい、フラフラした。途中、森鴎外記念館なんてのがあったが、高瀬舟と舞姫という最低限な作品しか読んでいない私なので入るのが躊躇われ夏目漱石の旧宅へ向かうことにした。
塀にネコさんがいる。この碑の文字は川端康成が書いたという。ちなみに、ここに夏目漱石的なものはこれしかなく、旧宅自体は保存のために犬山の明治村に移築された。
山門のようであるが、神社なので楼門となる。ここは根津神社である。
これは拝殿の写真だが、仏教の印である「卍」が使われている。
他にも巴のような卍もあった。この根津神社は昔、「根津権現」と呼ばれていたという。「権現」というのは山王権現などが有名だが、仏教の仏様を神道の神様にもしてしまうといった感じのものだ。山王権現も元は仏教の仏様だが、日枝神社などで祀っている。昔は神仏混淆であり、そんなに仏教、神道の境目がなかった。そこに境目が出来始めたのは明治になってから神仏分離、廃仏毀釈が進んだところにある。行き過ぎた国学の結果なのだろう。ただ、私は日本史を学んでいないのでいまいち分からないし、断言は出来ない。
6、7時間の旅行だったが、かなり濃厚だった。なんかこう、知識が増えた感じのする旅だった。
東京観光した話 その1
東京の鉄道を完乗してからというもの、どこかに行く目的を失い、23区内をプラプラすることが多くなった。もちろん関東内にも乗っていない路線が3路線ほどあるのだが神奈川の山の中や、茨城の山の中、栃木の山の中となかなか行くにも計画が必要なところが多い。そうなると安く済む23区内を巡るのが楽だ。
東京メトロの24時間券を購入し、築地駅で降りる。築地駅は目の前に築地本願寺のある駅だ。当然参ったが写真はない。SDカードを入れ忘れてきている。
近くのコンビニでSDカードを買い、勝どき 橋の資料館へ。橋の模型や、橋を持ち上げていたモーターなどが展示されていた。
𫞏鬨勝
𠩄電變
と書かれている。この資料館は元々、勝鬨橋のモーターを動かす電気を変換していたところのようだ。ちなみに、ここに書かれている「橋」の「喬」の上の部分がどう見ても「大」に見える。しかし、そんな漢字は調べても出てこない。異体字なんてどんどん作られごまんとあるとは思うが、勝鬨橋建設当時のものだとしても76年前である。しかも、他の文字から察するに、そこまで崩した書体でもない。なんなのだろうか…
勝鬨橋を渡る。「勝鬨」というのは「勝ったぞ!!!!!」みたいな叫び声。勝鬨橋の前身は、最初にあった渡船だけでは月島への乗客を捌ききれなくなったため、日露戦争に勝ったことから「勝鬨」と名前を付けて運航を開始した「勝鬨の渡し」。
関東大震災後、橋を作る運動が始まったという。特に理由について書かれていた記憶はないが、関東大震災ということから考えると火災時の避難のためなのだろう。
実際に完成したのは1940年。ちょうど皇紀2600年の年である。この年、多くの記念行事が行われ、東京では万博とオリンピックを同時開催するという夢に溢れる計画が進められていた。この、東京万博のメーン会場となるはずだったのが勝鬨橋の渡す月島だった。「なるはず」と書かれているのはもちろん中止となったからだ。時期的に日中戦争が始まっている。ちなみにゼロ戦の「ゼロ」は皇紀26「00」年から来ている。
勝鬨橋のちょうど真ん中あたり、昔ならぱっくり別れる所だったあたりにこういったものがある。可動橋については全くもって知識がないので分からないが、恐らくこれは必要ないものである。そう、これこそ勝鬨橋を都電が走っていた遺構なのだ。これは架線柱ということになる。勝鬨橋は跳ね上がるタイプの可動橋のため、都電の架線を橋の上にそのまま張っていると、橋が跳ね上がる度に架線をブチブチ切ることになる。つまり、この橋の真ん中には架線が張られていなかったということだ。この写真の青空が覗いている部分だ。ここは恐らくデッドセクションとなっていたのだろう。昔に戻ることは出来ないので憶測でしかない。
勝鬨橋には6つの架線柱がある。この写真手前に写っているのはアーチ部分の鉄骨であって関係ない。その奥のレトロな建物の近くにあるのが1つめ、その奥に1つ、真ん中に2つ、その奥に1つ、最後に1つという左右対称な本数。レトロな建物の架線柱と次の架線柱までの間の架線は、橋が跳ね上がっている最中は伸びたらしい。橋の資料館の科学の友の挿絵にそのように描かれていた。恐らく、上がるのと同時に何か糸のようなものでこの柱間の架線を吊らしたのだろう。勝鬨橋の開いている状態の画像を検索して頂ければ分かると思うがかなり傾斜である。架線は金属であるため、そのように対処したのだろう。
工事をしていた。工事をして永遠に残って欲しいものである。
この後、地図上では灰色になっている橋(築地大橋)に向かったが完成していないと知って勝鬨橋に戻り、勝どき門から築地市場へ。
築地市場に入ったはいいものの、関係者しかおらず非常に心配になってくる。しかし、関係者も注意してこないためズンズン進んでいく。
このどう見てもホーム跡ですよみたいなコンクリートの土台!!!!そう、こここそが東京市場駅跡!!!!たぶん!!!!ここに鮮魚列車が来ていたと考えるだけで興奮する。
う~~~~~~~~~ん、髣髴とさせる~~~~~~~~。ただ、市場関係者(結構怖い面構え)に気を遣ってあまり写真は撮れなかった。築地市場は上空から見るとグニャッと曲がった形状をしているが、これは東京市場駅、つまり列車が乗り入れてた名残なのである。
この後、青果市場が「入場禁止!」みたいな看板があり怖くなって避けて浜離宮脇辺りから出て、東京市場への引込線跡へ。
有名な銀座に残る踏切である。この先にはかなり幅のある道がある。そして、その先には電通の本社ビルがある。幅のある道はこの引込線が廃止となる前からあったが、電通の本社ビルはもちろんなかった。昔は汐留駅があった。
2000文字に近付いて来たので疲れたのでココらへんで切りたいのでまた次回なので。
「東京-大阪・JRのない旅」の話
宮脇俊三の「旅の終りは個室寝台車」という小説の中に「東京-大阪・国鉄のない旅」というものが収められている。途中、国鉄バスを使っていた気もするが、どうにか大阪(近鉄で移動したはずなので大阪難波だった気がする)、に到着した。
では、現代ではどうなるか。以前、調べた事があり、備忘録代わりに書いていきたいと思う。ルールは、徒歩での移動は1km以内。ただし、ホーム間の移動、同一バス停間の移動は考慮しない。使うことが出来ないのはJR、JRバス、JR西日本宮島フェリー、タクシー(タクシー会社の運行しているコミュニティバスは可)。出発は東京駅、到着は大阪駅。ただ、私鉄で「大阪駅」へ行くことは出来ないため、バス停の「大阪駅前」をゴールとする。
第1日
東京7:40-丸ノ内線-7:46国会議事堂前
国会議事堂前7:50-千代田線-8:02代々木上原
土肥港14:40-駿河湾フェリー-15:45清水港
清水港16:00-無料シャトルバス-16:08清水区役所
清水区役所-徒歩0.7km-新清水
藤枝駅南口18:40-藤枝相良線-19:41相良営業所
第2日
相良営業所8:10-相良浜岡線-8:37浜岡営業所
新所原14:27-白須賀岡崎線-14:41境宿西
境宿西-徒歩0.7km-一里山
運賃計:16,660円
実行する計画はないし、実行する気もない。途中、御前崎の方に向かい遠回りをしているようにも思えるが、東海道本線沿いに進むと本数が少ないコミュニティバスを乗り継ぐことになり、このコミュニティバス地帯で1日無駄に費やすことになるため、時間ではこのルートが恐らく最速だと思う。
それにしても金額も恐ろしい。学割を適用させれば大阪から東京までサンライズのシングルに乗ったほうが安いのだ。苦しい思いをしながら2日かけて大阪へ行くぐらいなら楽に寝ながら東京へ行くほうがいい。
補往の話
補往というのは往復乗車券の補充券なのだが、これが日本の首都である東京都で買えるのである。かなり有名な話であるが。
南武線の分倍河原駅はJRの駅なのだが、京王の駅でもあり、管理をしているのは京王の方だ。そういった形態の駅でもマルスが設置されている駅もあるのだが、分倍河原駅にはなく、特急券などは出すことが出来ないが、当日発、分倍河原駅発、101km以上の3つの条件が揃えば片道乗車券、往復乗車券を出して貰える。片道乗車券は以前発券して頂いたのだが、なかなか往復乗車券は機会がなく、今回やっと発券して頂いたのだが…
無効印を頂いた時にぶっちぎられてしまった…まだかえり券を使っていない段階からど真ん中に無効印を捺され(左上のである)、「まだかえり券を使うのですが」と説明すると、何を思ったかゆき券とかえり券をちぎり、ゆき券に無効印を捺して渡してきた。その瞬間、身体の全体力を失った気もしたが、なんとか今日も生きられているようだ。
この切符、学割を適用しているのだが、学割の印が捺されていない。私も貰ってから少し経ってから気付いたため指摘することが出来なかった。なるべく4字以上の駅で下車するようにした。武蔵小金井駅の下車印と神田駅の下車印が中でもお気に入りだ。ちなみに、「分倍河原から」の左にある判読不可な下車印は御徒町駅のものである。
ちぎられたもう一方。右下の方に丸い穴が空いているのが分かって頂けると思う。そう、無効印だけではない。パンチも押されたのだ。私も磁気券にパンチを押すのは理解できる。しかし、この補充券はただの紙ッペラである。なんだろう、私が紙からハンコのインクを取り除く高等技術でも持ち合わせているように見えたのだろうか。そうなのであったら仕方がない。
こちら側はなるべく3文字の駅で途中下車するようにした。新宿駅が無駄にデカい下車印だが、これは中央西口。つまり京王の改札の下車印である。武蔵境駅はハンコの入った棚をガチャガチャ探し、結局見つからず、駅名小印でもないよく分からないハンコが捺された。最後に下りた西国立駅が新宿駅と同じようなサイズ感の下車印だった。ちなみに、下車印のサイズは旅客営業取扱基準規程第144条に楕円形で横0.8cm、縦0.5cmと定められている。楕円形でない下車印やらサイズもまちまちだったり、終いには武蔵小金井駅や千駄ヶ谷駅のような90度回転している下車印もあり、形骸化している決まりなのだろう。
三笠見に行った時に使った切符の話
ハイスクール・フリートのスタンプラリーを同時進行でやっていたのでこういう切符に。途中下車をするために東京-品川間を東海道新幹線経由としている。出札補充券となっているのは旅客営業規則70条のせい。70条で決められている区間は最短経路で計算しなければいけない。この場合、70条で決められた区間である新宿-品川間を山手線経由で計算しなければいけないが、先ほども言ったが東京近郊区間から出すために新幹線経由となっており最短経路から外れてしまう。駅の窓口にあるマルスという機械でも補正禁止という操作を行えば発券出来るには出来るが、70条は強制的に適用しなければいけない決まりなので安易に使うべきではない。補正禁止を使う場合は強制ではない大都市近郊区間の最短経路での運賃計算を客の要求通りの経路で運賃計算する場合などであろう。
実際、この場合は補正禁止をしてしまった場合と最短経路での運賃に差が出てしまう。最短経路、つまり70条で決められた区間を山手線経由で計算した際、116.8kmで1840円(学割適用で1470円)だが、経路通り、つまり中央東-東北-新幹線で計算すると、123.3kmで2160円(学割適用で1720円)となってしまう。これでは誤発となるため出札補充券で対応となるわけである。
券面で面白いところは事由の所に「新在往」、「新在復」がないところである。つまりこの補充券は三島会社が運賃を改正する前の全国で統一された国鉄の運賃体系を保っていたJRの時代の補充券というわけだ。また、再掲の所が「自動車運賃」と「連社運賃計」となっている。今の特別補充券は「連社1」と「連社2」である。昔は多くあったバストの連絡運輸も徐々に減り、今では西日本ジェイアールバスの中国高速線と高雄・京北線のみとなっている。時代を感じる補充券である。
補充券と比べるとインパクトに欠けるがもう1枚。普通、JR東日本の普通列車グリーン車を乗り継ぐ際、別方向に向かう列車同士(例えば宇都宮から宇都宮線で上野まで来て、そこから常磐線で水戸みたいな)は1枚のグリーン券にすることが出来ないのだが、唯一の例外がこの横須賀線(鎌倉方面)⇔東海道本線(小田原方面)の乗り継ぎである。こんぐらいしか面白いところはない。無理でも探せと言われたら「逗子」の「逗」に2点のしんにょうが使われているとかだろうか。
切符の紹介終了。私の本来の趣味はこういった領域だ。ただ、こういうものは補充券の時にたらたらと書いた規則や誤発券といった問題と直結しやすいのでこういったこじんまりとしたところで上げているのが1番良い…
三笠を見に行った話
三笠といえば日本海海戦で帝政ロシアを破った戦艦だ。私も司馬遼太郎の名著、「坂の上の雲」を途中まで読んでいる。途中までである。
恐らく、この船は唯一残っている帝国海軍の戦艦だと思うが確証はない。帝国海軍にいた船ということでは船の科学館にある宗谷もそうだった気がするが、戦艦ではないであろう。
副砲(でいいのかな)がこんな感じで結構並んでいる。1番隅の方には便所の跡もある。この三笠、かなりの部分が復元されており、便所のタイルの跡ですら昔のままの部分で貴重な部分になってしまうらしい。
艦橋に上がり、軍神東郷平八郎が立ったと言われる所に立つ。恐らく、あの有名な絵の位置なのであろう。入ってすぐの所にパネルも設置されていた。それにしても、この艦橋、お外に出ている。司令長官やら参謀やらがいる場所が丸出しというのは危険な気もするが、昔はどこの船もこんな感じだったのだろうか。
下に降りると壁で囲われた部屋がある。敵からの攻撃が激しくなってきた時に上の丸出し艦橋から降りて、ここで指揮を執るようになるらしい。
前のマストにはZ旗が翻っている。「皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ」で有名なあれだ。
砲撃を受けた三笠の廃材で作った雪見灯籠である。伊藤博文の家に飾られていたとか書かれていたかな。曖昧である。
上甲板から降りて中甲板に入る。先ほど言った通り三笠はほとんど復元なのだが、ほんの少しだけ当時の物が残っている。この木の板も当時のものだという。この上を東郷平八郎や、坂の上の雲の主人公の1人である秋山真之が歩いたと思うと感慨深い。
中甲板の前の方は資料館みたな感じで面白くはないが、後部はちゃんとした部屋となっており面白い。これはなんでか分からないが見た感じ食堂だろう。
椅子の背もたれには桜の紋章があり非常にかっこいいのであるがまともな写真はないのである。
パネルに書いてあるように長官公室である。用途はパネルに書いてあるとおり作戦会議やら応接間として使われていたようである。
おしゃれランプ
菊の御紋が描かれたかっこいい額縁に明治天皇の御真影が収められている。
筥崎宮の御札。「三笠」であるから当然、艦内神社は三笠神社なのだろうが、筥崎宮の御札もある。見えるか分からないが「敵国降伏」と御札に書かれている。これは筥崎宮に掲げられているらしい言葉だ。意味は「暴力でねじ伏す」というより「美徳みたいなもので自然に降伏させる」というものらしい。
三笠はコンクリートで埋められており海に浮かんではいない。ワシントン軍縮会議の影響とかなのだろう。艦首の菊の御紋はレプリカで本物は中甲板の資料館みたいな所にある。保存のため致し方ないことだろう。
艦尾には十六条旭日旗が翻る。本当に戦艦なのかといった感じのおしゃれな艦尾である。
詳しくもないのでかっこいいまとめ方が出来ないが一言、
おふねはすごいなとおもいました。
羽田空港で飛行機を見に行ったけど暑いし55-200mmのレンズではまともに撮れなかったのでさっさと引き上げて日本水準原点標庫を見に行った話
ほぼタイトル通り。
鶴丸かっこいいですけど展望デッキに鉄線があり、なんともピン甘気味になってしまう。なんか上手く避ける方法はあるんでしょうけど。
ジェイエアの飛行機が飛ぶ瞬間。機材の名前は知りません。737と767ですら見分けられる自信がないほどの知識量です。
ルフトハンザの747もいた。なんか羽田は中国、韓国にしか国際線がないみたいな印象でしたけど羽田からフランクフルトなんていうのもあるんですね。
1番気に入った写真。
この後、増上寺に寄りながら行きたいと思いつつ行っていなかった日本水準原点標庫に行った。
その前に国会前庭に寄る。国会前庭は国会議事堂前の太い道で北地区と南地区に分けられる。この写真は南地区のもの。和風の庭園となっており、中央省庁の集まる霞ヶ関、永田町にいることを忘れさせる。商業施設も特にないので非常に人が少なく落ち着く公園だった。
日本水準原点標庫は国会前庭の北地区にある。未だに「大日本帝國」の字が残る建造物である。
菊の御紋と恐らく篆書体で書かれた恐らく「水準原點」という字。「準」の篆書体はこんなのなのだろうか。「さんずい」が「水」になっているのは分かるが…
その後、柵の隙間から国会議事堂を撮った。白黒なのは気分。実は日本水準原点標庫の2枚目の写真も白黒。それにしても国会議事堂周辺ってこんなに厳重警備だったかなと思う。正門前にはパトカーが1台常駐。国会議事堂前の太い道には警察を輸送するバスみたいな奴が2台とパトカーが1台。衆議院側の門にも1台程度いたように記憶する。備えあれば憂いはないのだろうが。
この後、メトロの24時間券を購入していたので元を取るために池袋やら秋葉原やらに行って帰った。