所感雑感

くだらないひと。

AV女優等のセックスワーカーは「開放」なのか「隷属」なのかの話

 Twitterを見ていたらこのような言説を見つけた。

  これに関する個人的な見解を述べていきたい。

 

 まずはじめに資本主義とはどのようなものなのか、簡単にまとめる。

 資本主義はものすごく簡単に言うと、最初に投入したお金よりも大きなお金が最後に生まれる、そのような仕組みのことを指す。そしてその仕組みを成立させるためにはいくつかの要素が必要となる。その中でも今回は「労働力」に焦点を当てる。

 労働力とは人間の働ける能力で、人間自身を商品化したものと言っても過言ではない。資本主義社会で人間たちはより良い商品になろうと努力し、バイトの面接や就活で自分の有用さを示し、企業という消費者に購入されるように頑張る。こう聞くと物悲しいが、これは人間が必死で求めた「開放」の歴史でもある。

 

 古く人間は、封建制の中で暮らしていた。多くの人間は同じ場所で同じ仕事をし続け、領主など自分よりも立場が上の人間に対して農作物などを納める生活をしていた。

 しかしそのような制度は永遠には続かない。市民革命、資本主義革命が起きる。この革命によって封建制は崩壊し、人間は自由となる。人間は自由に住む場所を変えられ、自由に職を選べるようになった。封建制という主従関係から「開放」され、自分自身の体の処分を自分自身の意思でコントロールできるようになった。このような面から見て、職を自分自身の意思で決定することは「開放」と言えるのではないかと思う。

 

 しかし、「隷属」というのも理解できる。他人の欲求に自分自身の体を使っているわけだから。しかし、これはポルノだとかそういったものだけの話ではない。例えば食料だってそうだ。私達は何かを食べたいという欲求を満たすために農家や漁師の体を使っている。我々は無意識的に彼らを隷属化させる行動を取っている。それが「労働」が存在する社会の常だ。この構造を否定するなら労働自体を否定しなければならない。我々が何かしらの欲求に基づいて、あるいは単なる生理現象に基づいて行う全ての行動に無意識的に隷属化された存在、透明な奴隷が存在するのだから。

 

 私の立場としては、ポルノは自分自身の体の処分を自由に決められるという「開放」の最たるものと認識している。また「隷属」は社会の構造そのものであるのでポルノを否定する文脈として使えるものではないと考える。