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所感雑感

くだらないひと。

ゆとりの話

 これは面白い話。私はゆとりのような人間がこれからいなくなるという希望に満ちたものだと捉えたが、ゆとり世代の中には「失敗作」という「烙印」を押されたと今更感じた人がいたという。流石に遅すぎる。あんな教育を受けていた時点で体中のあちらこちらに「ゆとり教育」という焼印を押されていたのだ。

 さらに面白いのは「無償で教育しなおしてくれ」という意見だ。これは非常に面白い。

 私は年齢における「ゆとり世代」という括りはいいが、学力における「ゆとり世代」という括りは無理があると考える。教育というのは何も学校のみで与えられるものではないからだ。得たいと思えばいくらでも得られる環境は整えられているのだ。いくら学生はゆとり教育を受けていようが世界中では関係なくあらゆる研究が進み、過去に比べ理論の確実性も上がっていることだろう。得ようと思えばいくらでも過去以上のものを得られる。新書を買わずしてもネットで得ることも出来る。1つ問題があるとすれば能動的でなければ得られないというところだろうか。

 

 ここらへんからは論理の飛躍というか関係ないことだが、近頃多く見かける「は」を「わ」、「言う」を「ゆー」と表現するもの。あれはとてつもない抵抗感がある。まだ、「烙印されてる」、つまり「烙印する」という動詞(もちろん名詞+するで動詞化するのだがここでは「を」が欲しい。もっと言えば「押される」が好ましい)のほうが可愛い。いや、ぼくみたいな底辺学生が慶応大学のお嬢様に対してとやかく言う権利はないんですけどね。

 ネット上で相手の素性を知る唯一と言ってもいい手段は「文を見ること」だと思う。もちろん文ばかり取り繕っても中身が付いて来ていなければいつかボロが出るだろうが、ボロが出る以前の文体と「ゆー」などを使っている文体とを比べれば前者のほうがしっかりしていそうな印象を受けることだろう。

 喋りもそうだが書きも色んな人の影響を受けながら変わっていくものだと思う。「ゆー」みたいな言葉もだ。言葉の伝承はそうやって繰り広げられて来たのだろう。

 最近、ら抜き言葉はある程度受容出来るようになってきた。私は絶対使わないが。確かに可能以外に受身や尊敬を表せられる「られる」を区分できるようにするのは有用性があるよう思う。私は絶対使わないが。

 ここで「ら抜き言葉使いたくないのによく分からない」というあなたに朗報です!動詞の後ろに「ない」を付けましょう!食べ「ない」⇒この場合は食べ「られる」。喋「らない」⇒この場合は喋「れる」となります!分かりやすい!この方法で脱ら抜きライフ!!!

 ここで閑話休題、人は他人の言葉に影響されがちだ。ということは頭のゆる~い文も継承されていく可能性があるということだ。「わ」、「ゆー」というのは表音主義には準拠しているかもしれないがいくらなんでも緩すぎる。将来、「わ」なんて書かれている小説が出ると思うとゾッとする。これが現代仮名遣いを批判した人たちの思ったことなのだろうか。だとすると慣れていくのかもしれない…

 

 いまいち言いたいことが分からないふわふわとした文になってしまった。まとめると

  • ゆとりはゆとり
  • 教育は受身だけでない
  • 日本語の進化と誤用

だろうか。そんなこと話したっけ?まあいいや